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ブログ初心者編 書いた記事が恥ずかしい・・・下書きを公開できない時

 

こんばんは、星降る吟遊詩人ライター、郁です。

 

ブログの投稿、書き始めの時は、

「こんなことを記事として投稿して良いか・・・」、と、

迷う時があると思います。

 

そんな時に、ふと、で良いので思って欲しい投稿のヒントになります!

 

もしブログに投稿ボタンと下書き削除ボタンしかなかったら・・・

 

書いた記事の投稿に迷った時に、

「投稿ボタン」「下書き削除ボタン」しかなかったら、

あなたはどっちを選びますか?

 

書けないなりに悩んで書いた文章、

 

時間をかけて書いてみた文章、

 

そして、書いた人にとっては赤裸々な告白をした文章(読んでいる人にとってはその方が面白いのですが・・・)

 

どれも、投稿する人にとっては、少しプライベートな体験談が混ざったりしていて、こんなこと書いたら・・・と「投稿ボタン」を押すことをためらうことがあるかもしれません。

 

ですが、そんな時、投稿ボタンを選ばなければ、

あとは「下書き削除ボタン」しかなかったらどうしますか!?

 

きっとブログの記事はそのぐらいで良い

 

読んだ人にとっては、どの記事に共感して、

どの記事がピンとこないかは、感じ方は人それぞれなのです。

 

訪れる人の数だけ、感じ方、読み方も様々だと思います

 

もしあなたが、この記事はこんな感じで伝えたいと思ったとしても、読み手がどう感じるかは究極のところわからないのです。

 

もちろん、書いた記事のテーマと言いますか、事柄に対してある程度は伝えたい気持ちに近い感覚を感じる人もいるかもしれませんが、相手の読んだ感想は直接聞かない限りわからないと思います。

 

ブログ記事を素直に書くということ

 

ですので、読む人にこれが伝わって欲しいと想って書くことは、まったく良いのですが、

 

突き詰めると、相手がどう思うのかは、

 

書く側にとっては予測不可能ですし、相手の意思をコントロールすることは不可能と言いますか、

 

読む側の気持ちを操作したところで・・・ですので、

 

想っていることを「素直」に書いていくことが一番わかりやすく、シンプルなブログ書きな方法ではないかと思います。

 

素直に書くことが、すぐにできれば良いのですが、

 

本当のことを素直に書く「怖さ」というのは、書き続ける上ではいつでもあると腹をくくってしまった方が良いのかもしれません。

 

怖さがありながらも、「素直に書く」を意識する。

 

これはまずいかなと思うことほど、読む側にとっては逆に、本音を聞けて安心する感覚になることの方が多いのです。

 

良いことを言わなくて良い

 

どうしても、書く記事で、人に役に立ちそうなこと、お役立ち記事、もしくは、飾った良いことを人は無意識のうちにしてしまいがちです。

 

それは、素直に書くことの怖さと同じように、書く人にとっては誰にでもあるコトと腹をくくってしまった方が良いのかもしれません。

 

なぜ「良いことを書かなくてはいけないのか」という心理については少し考えることなのですが、

 

私の場合は、子供の頃の学校の教育ですとか、それは大学にいたるまでの社会の構造、はては大人になってからも会社などにある方針でしょうか、

 

例えば、子供の頃、作文の宿題、「〇〇」について、原稿用紙2枚、800字までという縛りのうえで書かされることってありませんでしたか?

 

思えば子供の頃からそんなハードモードな設定を与えられて書かされるってどういうことだったのだろうかと不思議でしょうがないのですが、

 

添削する先生が面倒だったからでしょうか、

 

限られた文字数の中での文章の構成力などをつけるためだったのでしょうか?

 

これはほんとうに、今思えば不思議なことです。

 

なぜって、子供の頃に、文章に対して縛りを設けずに自由に書いて良いという経験すらしたことのない人間にいきなり縛りを設けて書かすのですから・・・。

 

高校の時もそうでした。

 

修学旅行の作文の課題で、限られた原稿用紙の中で、おそらく4枚程度、1600字の中で、ひとつのシーンしか書いてはいけないという縛りがありました。

 

旅行の出発から帰るまでをダラダラと書くのではなく、いちひとつのシーンについてだけ書くという縛り、

 

読書感想文もそうですね、引用で文字数を稼いでは絶対ダメですとか・・・・、

 

で結局、思えば、こんな縛りは、国語上文章力を鍛える、構成力をつけなくてはいけないなどと書く側に無言のプレッシャーを与えていたと思いますし、

 

私も文章というのは、しっかりと構成をし、起承転結、段落、句読点、まとめ、などなどが必要と「なんとなく」そういった意識をいつの間にか持ってしまっていたのです。

 

あげく、大学入試の小論文・・・

 

今思うと、あれは何がしたかったのかわからないです。

 

ひとつのお題に対して、感じたことを論じる、で、結局、それで合格の判断基準ってなんですか!?

 

・綺麗に構成された文章ですか?

 

・文書はめちゃくちゃでも、書いている内容が正しければ良いのですか?(そもそも正しいってなんだろうとありますが)

 

・それとも両方ですか?

読む人にとっても、感じ方、捉え方が違うはずなのに、何が正しい基準でしょうか?

 

 

そもそも、だいたいの人は自由に書くことすらしたことがないのに、いきなり縛りを設けられるという書く上でのおかしな束縛があり、苦手意識を植えつけられていた・・・。

 

そう思うのです。

 

ほんとうに、小論文の文章とか意味ない、例えば、環境だろうが、自衛だろうが、法律だろうが、

 

それについて、綺麗な文章、しごくまっとうな意見を述べる力があったとしても、ブログにおいてはまったく意味を持たない。

 

それは、「つまらないから・・・」です。

 

そもそもテーマじたいつまらないのですが、それを馬鹿真面目に丁寧に論じるという、さらに輪をかけて馬鹿なことをする社会・・・

 

あげく、会社に行けば、読みやすい文章など、

 

論理力、構成力、結論、などなど、「ああ、うっとうしい」

 

もっと、自由に書けないのか、そういう場所はないのか、

 

縛りもなく、自由に書いて良いってなんで誰も教えてくれなかったのか・・・?

 

 

私が思うのは、ほんとうに文章のプロとしてやる人ですね。

作家さんですとか、そういう人たちなら突き詰めると文章力、構成力、読みやすさ、句読点、言葉使い、送り仮名、段落などなど、数えたらキリがない次元なのでしょうが、

いや作家でも完璧なんていらないのではないかと、

文豪の作品でも、よく読むと漢字の表記がおかしかったり、でもそれに味があったりと・・・。

 

日本語なんて、意味不明な擬音語、擬態語がたくさんあります。

たとえば、ツン、デレ、エヘ、ヒヤッ、ヒュッ、ツルン、ニュッなどなど、

 

何度も言うように、私たちは、物心ついた時から縛りなく自由に書くことを許されてなく、ことごとく、生活のシーンで子供からはじまり、社会人にいたるまで、「ちゃんと書かなければいけない」という意識を、多くの人がうえつけられていたと思うのです。

 

「ちゃんと」じたいがなんなのかすらわからないのに・・・。

 

 

結局、ブログなどは、個人がもった自由な場所です。

 

だから好きに素直に書いて欲しいのです。

 

子供の頃に出された読書感想文だってきっちり400字、最後の一行まで使いなさいと言われましたが、でも読んだ本が面白くなかったら、「つまらなかった」の一文で良いのです。

 

小論文だってお題が法律であったら、「法律なんて興味がない」で本当は良いのです。(いや本当は良くないのですが、その、これから受験などをされる方はスルーしていただければとブログの文章の話だけです・・・!)

 

それを馬鹿真面目に書くというハードモード・・・

 

 

ですがそうやって生き残っていった人たちがじゃあ、大人になって職場で書いて送るメールですとか、仕事のマニュアルなど、それらが良い文章なのかということで・・・。

 

むしろ回りくどすぎて・・・、むしろ丁寧すぎて・・・、もしくは詰め込みすぎて・・・

 

まったくダメと言いますか、そんなマニュアル多くありませんか、

 

といいますか、「頑張ってわかりやすく書きましたよ、上司!!ほめてください!!」的な何かが伝わってきて・・・開いた瞬間に「うわぁ・・・」ってなって脳が直観で判断して「閉じるボタン」を押してしまう始末・・・。

 

私が仕事の時に書いたものだってあったのですが、ほめてくださいではなく、どちらかというと「一生けんめい書いたので怒らないでください・・・」的なオーラが漂っていたかなと・・・

 

で、結局、一日に何回も読み直し、やっと夕方帰りかけに送信ボタンを押し、送信したあとに読み直して、誤字脱字に気づき、頭真っ白になり固まる・・・。

 

間違ってはいけないというプレッシャーがさらに間違えを生む・・・。

 

よって、文章に自信もなくなり書くことが怖くなる・・・。

 

ですが、書く本質が違うといいますか、ブログでは書く目的が違うと言いますか、

 

今までの学校、会社の考えでとらえるのなら「正しく書く」「読みやすく書く」「間違わないで書く」とは全く正反対の、

 

思ったことを素直に、伝えようという中身の方が大切なのです。

 

読む人が知りたいのは、例えば、

 

・読書感想文なら

→書いた人から見て、本が面白かったかつまらなかったか?

 

・会社の資料やマニュアルなら

→書いた人から見て、その仕事は面白いのかつまらないのか、もしくは楽なのか面倒なのか?

 

本当のところが知りたいのです。

 

なので、結局、

 

私たちは、そもそも、自由に、素直に、あるがままに、書くということすら、ほとんどやったことがないのです。

 

長く学校で英語の科目があったはずなのに英語が話せない、わからないのと同じようなものなのかもしれません。

 

 

ブログ書き的に言えば、会社員だった頃に書いていた、販売実績の資料、進捗などについてのコメントですが、

 

私の本音は・・・

 

「こんな詐欺みたいな商品売らなくて良いですし、頑張れば頑張るほどさらに次からのノルマが大きくなっていくので、皆さんあまり売らないでください!!」

 

だったのです。

 

そして、メールを読む側にも響く内容といったら、本音のこういう内容なのですが、

 

会社はそれを絶対に許してはくれないですよね・・・。

 

 

つまりそういうことです。

 

イヤイヤで「頑張って売り上げを伸ばしましょう」と言い続けていたメールのストレスたるや・・・そして、みんなそれがわかっていたので誰もその任務を受け取ってくれない・・・。

 

で、売り上げが伸びなければ、メールで発信する発破が足りないからもっと強調してと言われる・・・。

 

私は嘘の文章ばかりを書いていたのです。

 

 

読書感想文だって同じことです。

提出する国語の教師が好きか嫌いかでもだいぶ変わってきますよね。

 

提出する先生が嫌いなら、そもそも宿題で感想を書くことも面倒といいますか、なんで嫌いな人あてにわざわざ文字を綴らなければいけないのかと、

 

そうは書く側は気づいていないかもしれませんが、無意識のうちに文章に表れると思います。

 

逆に、読んで欲しい先生だとしたら、文章にのる気持ちも全然違うのではないでしょうか。

 

要は書く相手が誰なのか、そして、その気持ちは素直であるのか

 

ブログ書きの文章というのはそれしかないのではないかと感じるのです。

 

 

もし「投稿ボタンを押す」か、「削除する」しかなければ

 

ずいぶんと長く書いてしまいましたが、結論として、ブログで書いた文章、それを下書きで残しておく「理由」などほとんどないのです。

 

投稿に迷った時

 

「投稿するボタン」か「下書き削除ボタン」しかない存在しないと思って、迷わず投稿です。

 

 

少し話が逸れますが、Twitterの投稿は、修正できないところがいいですね。削除はできますが、なにか、誤字をした時も、それは誤字をするほどドキドキと動揺して投稿してしまった時の気持ちが表現されていたりして、それはそれで味があるものなのです。

 

 

投稿するか迷ったのであれば、投稿ボタンか下書き削除ボタンしかないとしたら、と思ってぜひブログ記事を投稿してみてください・・・!

 

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

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