星降る吟遊詩人ライター、郁です。
いつもお越したいだきまして、ありがとうございます。
進化ってなにをもって進化なのか、人間らしいって何か、
便利、機械、なにをもって・・・、
たまにわからなくなる。
そんな思ったことを書いてみます。
ひと本来の姿について想像をめぐらす
進化ってなにをもって進化なのか、
便利、機械、なにをもって・・・、
たまにわからなくなる。
デフォルトとして、生身で動物を追い、木の実をとって、生活していた原始、
それは、人間が動物として完璧に生きたと思うのです。
知恵をつけた。
それは、たまに退化なんじゃないかって思うときがある。
体の動きが、動物的な動きがだめなので、頭で工夫して生き延びることを考えた人間、
当時、それは、もしかしたら、マイノリティ(少数派)だったのかもしれない。
体を動かして狩りをしていくことが基本であって、マストだったはず、だと思うのです。
でも、それができない個体がいた。
一生懸命他の方法で生き延びる考えをした。
マイノリティがマジョリティーになる時に常識が覆る気がする。
太古の昔、火をおこして動物を焼いて食べるなんて、はたから見たら変人だったのかもしれない。
なにが常識で、非常識なのか、それは、その時の状況でひっくりかえる。
きっと、人間というか動物の生存本能をより満たすという認識が生まれた時に常識になるのだろうか、とそう、思う時がある。
生存本能、遺伝子をつなぐ。
体ではなく、知恵を使った方が遺伝子の保存に有利だと、当時のマイノリティーが考えたあげく、常識をひっくり返したら、
それは進化といえたのだろう、か、
丸腰で、素手で、裸で生きていた時の方が動物的には最強だったのではないだろうか、
たまに考える。
本や学問、芸術作品、創作物、すべて動物的本能にあらがった「変態」がこじらせた過程で生まれたもので、
それを価値がある物として崇める人間も相当、生をこじらせてしまっているのではないだろうか、と
そうすると、何が進化か、わらならくなる。
難しい学問も、うまれた数式も、はたまた威厳を感じる建造物も、それがより良い生き方になっていると、誰が証明できるのだろうか、
たまに思う、それが、個としての生存的な欲求、認知への欲求として、こじらせてしまっているのであれば、
個としての生存はうまく叶ったかもしれないが、それにいつの間にか感化された周りの人間たちが、
その個体の欲求を吸収しながら、生き延びてきてしまったのではないかと、
ほんとうにそう考える時があるのです。
難しい学問に頷く人間、うまい料理に頷く人間、はたしてその人間の心を刺激するものは何なのだろうか、
人間として、文明として、それを知った誇りなのだろうか、
かつて、私たちは、自力でおのれの腕と足と肉体だけで生きてきた、その遺伝子を忘れたのであろうか、
だから、このブログも相当に生の欲求に対してこじらせていると感じることがある。
たまに本を読んで知ったような口をする私は、やっかいな人間だと思う時がある。
目に映ったままに星が綺麗だ、潮風が気持ちいい、自然の食べ物が美味しい、それだけで十分なのではないか、
なぜ、それ以上を求めてしまったのか、
考える時がある。
星を観るのに天体望遠鏡なんていらなかったのかもしれない。
見えすぎたのかもしれない。
文化、繁栄、知恵、教育、学問、知見、芸術、すべてこれ、本来動物的だったはずの人間の中で、変態とされるマイノリティーがこじらせた結果、こじれにこじれた世界が今の世の中だったら、どうなるだろう、
いまさら戻ることはできないかもしれないが、自然の人間になりたいと、そう感じる時が、たまにある。
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