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だいたいが依存させる仕組みの社会になっていると感じることがある

こんにちは、星降る吟遊詩人ライター、郁です。

いつもお越したいだきまして、ありがとうございます。

今回の記事は、価値観記事になります。

私が感じた世の中の仕組みで依存という部分について考えたことになります。

はじめはお金の部分から、物の売り買いの部分まで、少し長くなりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

お金の社会と依存について

経済社会の中で、お金を出して買う物と言えば、形のある物質的なものや、目にみえないサービスですとか色々な物が今の世の中溢れております。

貨幣経済と言うと少しインテリっぽく聞こえますが実際私は経済のことはまったく詳しくなく専門的なことが言えないのです。株がどういう仕組みかすらわかりません。消費税が今何%かぐらいならかろうじて答えられますが最近まで5%で計算しレジで金額があわないことはかなりの頻度で発生します。

はやくも脱線しそうになりましたが、「貨幣経済」と「依存型社会」について、今まで生きてきてなんとなく気付いたことなのですが、それは、良い悪いはひとまず置いておきまして、お金で回っている世の中は考えや行動が自然とそれに影響され無意識のうちに引っぱられてしまっている部分があるのだろなと感じる部分が多々あったのです。

いつの間にかお金を中心とした貨幣経済で出来上がったひとつの物の売り方、選び方、そして嗜好や好みまで影響されている部分がずいぶんとあるのだと感じたのです。

お金の使い方なんて、自分のお金なので好きな物を自分で選んで買っているはずと思っている人がほとんどかもしれないと思いますが、

一見、好きな物を買っているように思える、もしくは好きなサービスを選んでいるように思える世の中は、ほぼ依存するものから成り立っているのではないかと感じるのです。

ほぼたいがいの売り手は、売っているものが売れて、貨幣経済のなかでお金が入ってくればよい。
文章にするとあたり前のことを言っているようですが私のなかでは、こんな当たり前のことが盲点でした。

いかに買い手に悪い言い方をすれば、良い物だと思わせ、洗脳させ、法律で問題ない範囲で利益を上げれば良いか、(なかには違法もありますね)

それが買い手側は気付いているのか、いないのか、それとも気付いてはいるけれど妥協しないと生活を進められないからあまり深く考えずに、少し目をつむり商品を買っているのか、

どれもあるとは思いますが、

ただ言えることは、売り手はあくまでも売れれば良い、それもできるだけ綺麗(に見える)な形で。

この本質はあると私は思います。

なんだかあたり前のことしか言ってない気がしますね。

ではできるだけクリーンな形で売れるには?

という部分で行き着く先なのですが、

結局のところは無意識のうちに買う側に依存させてしまう方法が一番手っ取り早く、確実な方法ではないだろうかと感じたのです。

依存商法という部分、例えば薬や食べ物など命に直結するもの

よくよく考えてみて欲しいと思います。

子供の頃、風邪をひくと病院につれてかれた方でしょうか?それとも自宅でじっと治しましたか?

私の家の場合は、ほぼ、必ず病院に行き、そして薬を使いました。

そこに使うことへの躊躇はありませんでしたし、もともと親がそういうことに無頓着だったのかもしれません。

薬に頼って治してしまう(つもり)の方がうちにとってみれば、安易で楽だったのです。

私が体感として感じた、依存の部分は薬でした。

あとは、食べ物です。

薬、食べ物、どちらもクリーンで無害、食べ物はかなり物によって違いますがそれでも口に入れるという意味では、日本の食べ物は一応、衛生面なども含めれば、安全とみられているのではないでしょうか。

子供の頃からずっと、私は盲目的に疑わずに薬を使っておりました。

しかし、ですね、この使う薬ひとつにとっても背景には薬が売れたら製薬会社が儲かるという事実は、実際にあると思うのです。

こんなこと本音があったとしても絶対に口には出ませんね。

しかしどこの会社にも本音と建て前はかならずあると思います。

お客様のためのカスタマーサービスなどなど、そんな建て前ばかりなので、絶対に働いている人の心は病むのです。

会社とすれば、社員は心と体調を壊しても、役員の盾となり、会社の問題の本質をついたクレームから、俺たち、私たちを守れということが、聞こえなくても、その人たちの雰囲気から漂うオーラで文字になって見えてきます。

簡単な言い方をすると、サイクルが間違ってしまっているのです。

嫌なものは、嫌なんだ、そこに無理をして帳尻をあわそうとするから、それはお金の為であるというのが一番の理由だと思うのですが、お客様の為ですとか嘘で自分を納得させようとするから、どんどん歯車がおかしくなって、いつか取返しがつかなくなっているのです。

根本(こんぽん)がもう狂ってきてしまうのです。

少し話がそれました。

それで、薬に話を戻しますが、例えば有効な手段としては、じっくりと時間をおいて治せば自然治癒する病気があったとします。

ただ、即効性があったりして、使えば生活する上でも、早く症状が治まりけっこう便利であったりします。

薬を売る側だって会社であり、利益、売上、社員の給与だって払わないといけないのでお金は欲しいのです。

これは事実です。

薬の差こそあれ、病院で処方される薬からはじまり、ドラックストアで購入できる市販薬の中には、これほんとうに必要なのか、という物がけっこうありますね。

風邪薬など種類が多すぎですが、いったいどういう作用で効いているのか、はっきり言って理解できない。

ビタミン剤も、正直不明です。

ほんとうにあの錠剤の中に、容器の表面に記載されているビタミンがあるのだろうか、と、

まあ、専門的知識と機械などがあれば検証するすべはあるかもしれませんが、実際問題、「なまもの」から吸収しなくても良いのかとは思ったりします。

そもそも、乾燥させたビタミンって効果あるのだろうか、と、

余談ですが私はアレルギーに効くと言われた乳酸菌を1年以上飲用しましたが良くなるどころか、仕事のストレスもあったのかもしれませんが、どんどん悪くなりました。

この錠剤のせいではないのですが、少なくとも私には効かなかったのは事実です。

むしろやめて、仕事も辞めて休み、雑草とりなどで汗を流し、体を動かし、いわば原始の生活のようなことをしていたら良くなっていきました。

自然に生きるということは凄いです。

最強のremedy(レメディー:治療)かもしれません。

私は思ったのですが、RPGのゲームで良く回復するために宿屋に泊まり、寝ると、HPとMPが回復されますが、「寝るだけで回復なんて」と、現代人は思うかもしれませんが、あながち間違ってはいないと思うのです。

あと治療薬にハーブですね、これも間違いではないのかもしれません。

人生はゲームと似ているのかもしれません。

いや、むしろ単純に寝ることは最強の治療ではないかとすら最近、感じるのです。

会社などの環境で不自然に生きている感じがして、なお体調に悩んでおりましたら、とりあえず自然にあるがままにしてみることをおすすめします。

もちろんそうするために、現状の不安を減らしていく準備を少しずつする必要はありますが、もし原因不明の体調不良でお悩みがあればいちどゆっくり休むということを考えてみても良いかもしれません。

そこから、どう浮世から逃げる準備をしていくか、考える必要はありますけども、

なんとかなるんじゃないでしょうか?(少し無責任ですみません)

なんとかするしかないのかもしれません。

自分を守るためには。

今の社会に体も心も適応できないのであれば、そう生きていくしかないのですし、なんとか適応しようとするのも、また人間なのではないでしょうか。

それもまたひとつの自然なサイクルだと私は思うのです。

体も心も、苦しいと思えば苦しいのです。

他人からみてどうこう、世間からみてどうこう、ではないのです。

判断をするのは、そのひと自身の心なのです。

痛いものは痛いのですし、痛くないものは痛くないのです。

それは、言い方を変えるだけなのです。

不調を感じる人は敏感とも言えますが、社会的には弱いとも言えます。

不調を感じない人は鈍感とも言えますが、社会的には強いということなのでしょう。

それを、長く生きて、どちら側かと、感じたとしても、根本を変えることは無理なのです。

歪んだ構造、歪んだエネルギーを感じるとダメで、しかし世間一般の構造がそうであるのならば、無理に耐えずに、自分の性質に素直になり生きることの方が健康だと思うのです。

それは生物学上、もしくは社会上、強い、弱い、という言い方で比較されるのかもしれませんが、仕方がないのです。

単に、世間がかってに決めた基準のひとつでしかないのです。

人は、みな同じ感覚でもなければ、同じDNAでできているわけではないのです。

それが、人類の進化上おこった、いわば、私たちがエラーやバクのような存在であったとしても、エラーやバグなりに生きる道をさぐりさぐり、探していかなければならないのです。

「奇跡的で致命的なマイノリティ」(「ファティマ」歌:いとうかなこ、より引用)で良いのです。

宇宙規模の大きさでみたところで、どれがエラーでどれがバクかなんて大したことではないのです。

そんなことは、もう、ほんとうにどうでも良いことなのです。

ひとことで簡単に言ってしまうと、命がかかっているのです。

自分を守るのは自分しかないのです。

体の痛みも、心の痛みも、ほんとうに、自身の感じるその痛みをわかるのはあなたしかいないのです。

天の川が見えるくらの星を眺めれば、自分の存在が社会的なエラーやバグであるのかを考える意味のなさを痛感します。

目にうつる無数の星は、まだここに届かい光りの向こうで絶えず、消滅と発生を繰り返し、いつまでも不完全な宇宙のままなのです。

使っているパソコンに少々不都合があったところで、いちいち修理に出すだろうか、
機械にうとい私たちは、WindowsとMacがどういう仕組みで動き内部でどんなエラーを繰り返しているかなんて正直わからないし大したことではない。

実際に内部では、エラーがしょっちゅう繰り返されているが、表面上はみえない、感じない、エラーかバクかですら、わからない。

ほんとうの判断はできないのです。

そのくらいの感覚で良いと思うのです。

そもそもOSの違いから、はっきりと説明できるでしょうか。

せいぜい、iPhoneは多数受けのマジョリティーだから持っていて安心ぐらいの気持ちしか私には想像ができないのです。

※ここで言うパソコンを自作してなどという趣味レベルの人を取り出してもまったく意味がありません。知りたい人はその道を好きなまで追求していれば良いのです。

薬の話からずいぶんと飛躍しました。

依存の関係に話をもどす

それで、依存で成り立つ社会に話を戻しますが、薬によって依存がおこる弊害ですね。(同じことを言っていたらすみません。)

結局、本来であれば、少し時間をかけて自然に治癒させる、そこに薬の介入がなければ、長期目でみて健康であるパターンがあります。

しかし、依存を売って成り立つ貨幣経済の世の中は、それを許してはくれないのです。

薬を買わせるために、依存させ、仕事にいかざるをえなくする。

会社も、労働者の本来もっているキャパ以上のことをさせて、人間を使う。

またどんどん悪くなり、薬も強くなる。

どんどん薬に依存する。

最後は壊れる。

ずっと悪循環・・・。

社会は、本来走れるスピードよりも速く走ってしまっているのです。

スポーツ的にいえばドーピングです。

ニセのアドレナリンがでまくりですね。

結局のところは、無意識のうちに買い手に依存させてしまう。

社会経済的にみると、それがいちばんてっとり早い方法ではないだろうかと思います。

お金的な意味でも、労働的な意味でも、です。

ただ、行き着く先はどこを目指しているのか、それがわからないのです。

だから心も壊れるのです。

その行為(無理して働いていること)になにか正当性があると感じるのであれば、つらくはないのかもしれません。

痛みを痛いとも感じないのかもしれません。

もしくはアドレナリンがでまくりで、たとえ錯覚だとしても前に進んでいけるのかもしれません。

ただ、少し冷静に考えると、やはり誰が今、「それ」で得をするかと言うと、お金をもらう側という構造がみえてきます。

薬を使用する側は、はたして大きな得があるのだろうかと考えるのです。

おおげさに言うと、むしろ薬があることで、家でゆっくりと治療する時間が奪われたと言えるのかもしれません

ひとつだけ言いますが、

薬が完全な悪であるというつもりはありません。

歴史をたどれば、人の命を救った薬剤は限りなくあります。

感染症から人を救った抗生物質などですね。

当たり前ですが全ての医療の研究者がお金を目的に薬を開発したわけでははく、それは医療技術だってそうです。

ただ、やはり使われ方の部分を考えます。

それは社会が意識的になのか、無意識的なのかはわからないのですが、あまり良いとは言えないと感じます。

また、「私は良いのだ。薬があれば。それで生きることができれば。」と思っている人も、それで良いと思います。

要は本人の感じ方がいちばん大切なのですが、私は最終的には薬をあまり信用できなくなりましたし、その背景もこのように考えてしまうほどだったのです。

依存がなんにでも結び付く世の中の構造というのは、的外れではないと思います。

それは、薬ひとつをとってみても。

いつまで経ってもいたちごっこの仕組み

薬、病気ひとつをとっても、これだけ話せるので面白いものなのですが、

もうひとつ私が感じたことは、医療が進んだといいつつも、なぜ病院はなくならずに、後から後から、今までにない健康を脅かすものが生まれるのか、

戦前にはなかった病がなぜ生まれるのか、

いたちごっこがとまらないのか。

これは薬の使い方が間違っているから、なんども言うように背後に見える構造がゆがんでいるからなのではないかと感じました。

本来であれば、ゆっくりと時間をかければ自然治癒したであろう疾患をむりやり薬で抑えてしまったことです。

むりやり強い薬でフタをしめてしまったことです。

それで見かけは問題ないようにしてしまったことです。

そして、いつか本当に薬がないと生活できなくなり、頼るしかなくなる。

製薬会社、医者も儲かる事実があるのです。

病院で長い時間待たされ、診察が3分で終わるのが良い例です。

薬だけもらいに行くために待たされるのです。

患者すらもう根本的な治癒をあきらめてしまうのです。

本来であれば、もう来なくなることが良いはずなのに、いつの間にか行くのが当たり前になってしまっているのです。

医者に行かなくなることが健康なはずなのに、あまりそのことに目を向けないのが不思議なのです。

医者もほんとうに治すつもりはないというか、根本を見つめると人それぞれで時間がかかることになるでしょうし、薬で治まればまあ良いですし、治療する側も楽ですし、薬が無くなれば患者はまた来てくれるから儲かるのです。

こんな構造がある限り、おそらくずっと治らないのではないでしょうか・・・。

食べ物についても

食べ物についても、生理的な依存が利用されていると感じることがあります。

砂糖、うま味調味料、チョコレート、油、アルコール、タバコ、ジャンクフード・・・。

嗜好品も含みましたが、これらはてっとり早く体に快楽を与えやすいものです。

薬にも言えることなのですが、

この手っ取り早さというのが、それも、また依存へのキーワードではないかと思うのです。

早く欲求を満たす物ほど副作用は強いのです。

それはどこかで無理があるからなのです。

食、嗜好の欲求に対して依存というものもうまく売り手は利用しており、さも、良いもの、もしくは、あまり害のないもの、メリットを強調しております。

野菜を畑で耕して収穫し口にするよりも、加工され、食べやすく、保存も効き、青果よりも扱いやすく、安易に空腹を満たすことができるというのも「依存」だと思います。

ここに売り手にとっては、消費者の健康なんて考えている部分はないのです。

貨幣経済の中では、お金は資本になり、命につながる仕組みができているからです。(ごく一部の人間の命につながるのです。)

お金を吸い取るには、どう人間の嗜好を見極め、「依存」をうまく利用するのか、それだけだと感じるのです。

よく見渡せば、そんなものは山ほどまわりにあります。

簡単に依存につながるものほどお金になりやすい。

人によって、個体によって表面化する程度は違うと思いますが、戦前はあまり症例が少なく、戦後に多くなったと言われる現代病は間違いなく食生活、ライフスタイルの変化が影響していると思いました。

生き方が変わることによって、負の要素は新しく生まれ変わり、手を変え品を変え、人々をおびやかします。

結局なのですが、幸せや苦しさの大きさというのは、昔と比べてあまり変わらないではないかと思います。

これから、人間が100年生きる時代がくるなんて言われておりますが、正直いいますと長すぎると感じるのです。

そこまで生きたいだろうか、と。

いや、きっと、それが可能になる時代にはまた人間の依存心をうまく利用した「新しいモノ」が生まれるのだろうか。

生きるモチベーションも誰かに管理されていると考えると、たまったものではないと私は思うのです。

それでも多くの人が「もっと生きたい」と思うようなものが現れるのでしょうか、少し興味もありますが、依存心をさしだすくらいであれば私は確かめなくても良いのです。

そうして、いつ人間の目的にたどり着くのかわからない世界がずっと続きます。

果たして何をもって進化というのでしょうか?

そんなことを私は考えてしまうのです。

体を壊した高校の時までさかのぼれば、学校なんて行かなくても良かったのかもしれない、と、今でもふと思ったりします。

もちろん過去から今へつながって、その世界線の中で大切な出会いはたくさんありました。

ですが、あの時、近くを見すぎて、例えるなら貨幣経済の上で成り立った病院経営、依存型システムにいつの間にかまどわされ、そして社会で生きろという突っつきにもまどわされて、

結局、回復するまでに何十年もの時間、苦しんだのかもしれません。

後悔という言葉よりも、

時に社会が必要としている時間の流れと自分自身がほんとうに必要としている時間の流れ、

どちらが大切で耳を傾ける必要があるのだろうか、と、

いつだってその気持ちを持っていたい、と、

そう時間をかけて気付いたのだと思います。

もし吐き出したい気持ちがあるのなら・・・

私はブログで気持ちを吐き出すことで、今まで書いた悩みなどから、だいぶ自分自身を、そして周りの社会を良い意味で、離れて眺め、考えることができてきました。

ひとつは思い切って時間をとる決心ができたことです。

世間では、体調不良ぐらいで会社を休むなんて・・・と、いう、暗黙のルールがあります。

そして、しんどいと口に出すことができない人は、いつの間にかどんどん心も体も疲弊していくのです。

言い方は悪いですが図太い人、生命力が強い人にとっては、私たちはクズ同然かもしれません。

でも仕方ないのです。

これ以上、嘘をついて偽り、いたくない環境にいる必要はないのです。

あたなが感じてきた、不条理な気持ち、それを感じながらも抑えて生活している人はおそらくたくさんいると思います。

なぜなら、そういった気持ちをほんとうに抱えた人は、自分自身のなかで抱えたまま生き続けているからです。

ほんとうにしんどい人は人に話せないほどしんどく、シャレにならない、と感じている場合が多いです。

きっと自分のことを話さない人ほど、痛みついた心は大きな形なのではないでしょうか。

ですので、もし苦しんでいるのであれば、いちど好きなことをしてみませんか、

一度きりの人生です。

最後に後悔した時は、もう遅いのです。

せめて自分の抱えた感情を文章で出し切った後で、どんな景色が見えるのか、それを確かめてみませんか?

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