終活、終わる活動だが、そこからみえる「あたらしい景色」
「終活」とは、終わり向けた活動。
終わりに向けて準備する。
少し後ろ向きにみえること、でもいつかはやらないこと。
なんでも「活」をつけるのもどうかと思う。
じゃあ、ブログ書きは何活だろう。
私は思ったことを残したいから、「思活」だろうか。
残して気になっていることを後々に残せば残すほど体調にも悪く、色々な悪循環がとまらなくなることがわかった。
今回のリフォーム、物を捨てることで得たこと、
それは、
体調があきらかに良くなった。
なんだか、根拠もなく、なかばうさんくさい響きかもしれないが、ほんとうに軽くなる。
捨てることで、軽くなることで得られる体の不思議
これはびっくりする。
私はアレルギー持ちだ。
だからほこりなどだめなはずだ。
今回、家具などを動かすにあたり一緒に掃除した台所。
床下にはありえないほど昔のものがでてきた。
いつだかわからない昔、田舎からもってきたジャムなど、ありえない。
おそらく二十年以上は床下を開けてない。確信できる。
冷蔵庫とかきたない。
工事会社の人があやまって冷蔵庫の電源線を抜いて帰ってしまったようで、工事がまだ途中の夜に飲み物を取り出そうと冷蔵庫をあけたらぞっとした。
物が溶けている。
冷凍庫、なにか溶けている・・・。
真夏なのでそのままにしておくことはできない。
なにせ生魚とかある。
母が助けてくれるわけがない。
明日の工事の開始までにと、真夜中に冷蔵庫の中身をとりだす。
とりだすとどうしても中までの汚れが気になる。
というかほんとうに汚い。
口にする物を置いておくところがこんじゃ病気になってしまう。
おそらくカビとかいっぱいだっただろう。
調味料なども真夏の暑さでどれが大丈夫なのかわからないので、この際、全部捨てるしかない。
もったいないとかのレベルではない。
目にすると、体が拒否してしまう怖さだった。
冷蔵庫の中身を全て空にしてなお、取り外して洗う。
なにせ昔の家の人数をまかなう大きさの冷蔵庫なので、余計な物がたくさん入っている。
取り出すのだけでも時間がかかった。
そして、何かにこびりついて外れない冷蔵庫の板をやっと外し、台所のお湯で洗うが、なかなか汚れが落ちない。
除菌スプレーを使いまくる。
それでも朝になり、だんだん空が白み明るくなり、毎朝、早く来る大工さんの到着までに終わらすことができないくらいしんどい作業だった。
もう、そんな思いまでして、冷蔵庫の中身すら捨てまくる。
あわせて雑草も朝起きて抜く。
要らないものを処分する。
それが精神衛生上よかったからなのか、ほんとうに不思議なことだが、アレルギーが一気によくなった。
体の腫れぼったさがスッといつの間にか引いていた。
心と体はつながっている。
それは確信した。
ほんとうにもう、余計なストレスはいらない。
会社を辞めるからはじまり、物片づけ・・・いらないストレスから解放される大切さを知る。
私の場合、会社をやめるだけでは足りなかったのだ。
不要なものがなければそこに気を使う必要がないので、心が楽になり体への負担が減る。
いままであれだけ薬を塗っても無くならなかった湿疹が綺麗に消えた。
そして、薬の入ってない、からだに優しい保湿剤すら必要なくなった。
お風呂からでても自然乾燥で肌のうるおいが保つ。
薬を使わなくなったステロイドのリバウンドすらない。
普通の理屈ではありえないことで、今までは実際に薬を止めたらすぐに悪化してしまっていた。
ほんとうに不思議な体験だ。いったい、西洋医学ってなんだろう。体の理屈ってなんだろう・・・。
こんなに心も体も軽いのは小学校のとき以来の感覚だ。
いつも、心も体も、どこか「鉛」のように重かった。
夏になり、朝はやく起きて、日の出とともに雑草を抜いていたのが体のバイオリズムを整えたのか、土に触れたことがマイナスイオンのようなものに触れてよくなったのか、正しい理由はわからない。
ただ、昔、海に行ってすごい開放感を感じた時のような体の軽さだった。
大好きなライブに行った時の次の日に感じた体の軽さのようでもあった。
いつか、心が解放された時に感じた体の軽さに似ている。
湿度が高い時期で、ただ乾燥肌がおさまっただけかもしれない。
冬になれば戻るかもしれない。
でも、人間というは自然のままに生きた方良いのかもしれないと思うばかりだった。
日の出とともに起きて、土に触れ、日の入りとともに眠る。
当たり前のことだがそんな生活は、会社で働く現代社会では遠いものになった。
いまある現代病を解決するヒントというのは案外、簡単なところにあるのかもしれない。
だから不要な情報とかいらない。
心が惑わされる。
もっと直感のままに、感じたままに生きるべきだと感じた。
例えば、今回のことなら、雑草を目にする。
不快だから抜く。
そこに理屈など必要ないかもしれない。
「嫌なものはいやだ。」
ただそれだけだ。
だから、物を捨てる。
「会社の人間だっていやだから嫌だ。」
ただそれだけだ。
だから、人間関係を捨てる。
いっけん、会社をやめたり、50坪くらいの広さの雑草を全部抜いたり、それは破壊的な、もしくは衝動的な行動だったかもしれない。
でも、たぶん、私はそうしないと、もうだめだったのだろう。
目に映った余計な「雑音」をできる限り捨て去った。
いやまだ全てできてないが、少しずつ少しずつ私の精神と体を蝕んだものを捨てることで、ずっとずっと苦しんでいた体調が良くなった。
それこそ小学生依頼の感覚だった。
お風呂に入って、銭湯にいって、体を拭いただけで汗が引けば着替えることができる。
そんな当たり前の感覚をずっとずっと忘れていた。
いつも温泉や銭湯に行くときは病院から処方された何種類もの体に塗る薬を持っていっていた。
薬だけでもすごくかさばる。
お風呂から出たらすぐに、乾燥しないうちに保湿剤を塗るのもほんとうに大変だった。
着替えだけ、タオル一枚あれば素泊まりできる人がうらやましかった。
ごくたまに知り合いの家に行くしかなく、薬を用意してなくて入ったシャワーは肌に悪くつらかった・・・。
会社をやめた時から、断捨離は始まっていたのかもしれない
考えてみたら、会社もやめたが、職場も相当に余計なものだったのだと思う。
私の生活の中で不要なもので侵食されて死んでいくは、もう、ほんとうにごめんだとつくづく思った。
だったら私はいやなものからとことん逃げるまで戦ってやろうとすら思った。
いやなものおかげで理由のわからない体の苦しみに悩まされるのであれば、とことん無くそうと思ってしまった。(書いているときの気持ちなので、時間が経ったら捨てることにとらわれて苦しくなるかもしれない)
ひとつのことが良くなると、だんだん良いサイクルにのってくる気がする。
今回の「終活録」であれば、もともとのはじまりは、仕事を辞めた時からはじまっていたのかもしれない。
そして、はっきりわかることは、家の問題だった。
建付けの悪さ、生活のしづらさ、母の今後、私の今後、生活をする中で頭のどこかにある懸念をひとつずつほぐしていったら、体調がよくなってきた。
悪いサイクルなんて人は簡単に戻ると思う。
世の中、面白いもので、人は楽な方、楽な方へ行きがちで、実際にそういう物の方が売れる。
もうその時点で手にした時には、悪いものへ行くはじまりなのだが、巧妙にそういう事実が隠されている。
たとば、コンビニ弁当など、手軽だが長い目で見れば体を蝕む。
雑草とりもそうだと思う。
除草剤など怖い。
正直、どういう仕組みで生えなくなるのか理解できないから使えない。
いつどう体に作用するのかわからない。
だから全部50坪近くある雑草を人力で抜いた。
母は以前、ここに除草剤をまいていたと言っていた。
もう、こんな土でつくった野菜など口にできない。
これだけ広い土があるから畑にすれば良いのにと訪れた大工さんが言っていたが、ぞっとする。
終わる準備をはじめたことで、知ることができたこと、マイナスを捨てることでプラスが増えていく。
良い循環ってそういうことなのだろうかと、つくづく今回の件で感じたことだった。
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