終活はおわりに向けたようだけど、光が差し込み良いことがおこること 場の重力が軽くなった感覚
とにかく、今の現状をかえたかった。
なにも動かない母、もうこの人はだめだと感じて私自身で終わりを意識して動かないといけないと感じた。
だから、リフォームのどさくさに紛れて、捨てられるものはどんどん捨てた。
2Fにあった姉二人もふくめた、3人分の子供の頃の学習デスク。
もう誰も使ってない。
ただスペースをとるだけだ。
あと、だいぶ昔、まだ私がいない時の時代、搬入するのにクレーンをつかったという大きなタンス。
必要なくなった時にどうするか考えなかったのだろうか。
処分する側の立場にたつことで、これからの物の買い方をとても考えた。
自分の力で処分できないものは買わない。
いつでも自分で壊せて、捨てられるくらいの物で良い。
だってもう誰も使ってない物が何十年とずっとスペースを埋めるだけにそこ存在する。
庭の木と違って育つことはないが、それでも存在はだいぶ無駄だ。
かといって必要なくなったからと、簡単に捨てることができない。
だからそのまま放置になり、中には適当に、そして使わないものがどんどんたまる。
まったくの悪循環がそのスペースの中に存在する。
そうどこかで感じて生活しているのだからやはり精神衛生上よくない。
母は違うかもしれないが、少なくとも私は。
リフォームの工事業者は電ノコをいつも持っているから、木の素材であれば解体は容易で考えていたよりも処分はあっけなかった。
ほんとうに一階の床などの工事と一緒に、ついでに頼んでしまってよかった。
払う人件費も工事のついでなのでそんなにかからない。
学習デスク3つ、クレーンで搬入したという大きなタンス、本がたくさん入ったカラーボックス3台以上、この際だからもう使ってない部屋はできる限りがらんどうにしようと感じた。
体に不要な老廃物があると体調が悪くなるように、家にもデトックスが必要な気がした。
不要な重たい家具をずっと支えていたら家も疲れてしまう。
ほんとうに勢いで、物はついでに頼んだのだが、思っていたよりも安く、撤去費は全てで3万円ぐらいで済んだ。(工事のついでだから安かった)
おそらく、処分だけで別の業者に頼んだらこんなに安く済まなかったと思う。
突然お願いしたので、家具の中に入っている物を出すなどの作業が至急で必要になったがそれでもいつかはやることだから頑張った。
ほんとうにすっきりした。
なんか、心なしか家の中の重力が軽くなった気がした。
1tトラックを手配するので重さではなく容積で積むので不要なものを、工事業者が用意した工事袋へ明日までに入るだけ入れて良いと言われた。
袋の詰め放題の逆パターンみたいだった。
ここぞばかりに、不燃、可燃、使いかけのスプレー缶、考えずに袋にいれまくった。
それこそいつ買ったかわからない蚊を殺す殺虫剤や洗剤など、とにかく入れまくった。
もう虫に食われていた古い本も袋に入れる。
人によってはもったいないと思われるかもしれないが、誰も読まないのであればもったいないもなにもない。
日本の世界の文学全集など、ほんとうに昔の人はよく本を揃えたと思う。
父からも聞かされていたが長野にあった百科事典も捨てるに苦労したとのことだ。
古すぎて情報が正しくなく、価値があるようでまったくない、図書館ですら無料で引き取ってくれなかったとのことだ。
なので文豪の埃まみれの本もいっぺんに捨てた。
むかしの人は読む、読まないにかかわらずコレクター気分で揃えたとのことだ。
それこそ、知識を持っていることが「インテリ」みたいなものだったそうだ。
例えば、今の世の中でいうと家にパソコンがあるのに使ってないような物だろうか。
読まずに揃えるだけというのもどんなものなのだろうか。
それでもおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなった時に本をかなり捨てたのだがまだ残っていた。
死から何十年にもわたって、それでもなお自分が所有したものが残っているってどんな感じだろう。
なにか、ずっとその場に囚われているみたいで少しいやだ。
私なら必要最低限のものを動かせるボックスに入れて、死んだら処分する人が捨てやすいようにしておきたいと感じてしまった。
飾るとかもう良い。
保管するだけで余計な労力だ。
私にはブログだけあれば良い。
むしろブログがなくなってしまったら何も残らなくなってしまう。
物なんていらない、想いが残っていればそれで良い。
汚く、全然管理できてない家の片付けをしたら心からそう思えた。
捨てるかどうか悩む物なんていらないし、こんなに広く置く場所があるっていうことは、逆に物をどんどん貯め込んでしまうのだろうと知った。
そして塵も積もれば山となるというがまさしくこのことだ。
だんだん積もったものに目を向けることが面倒になる。
そうやって放棄してさらに物が増える。
負のスパイラルの始まりだ。
祖父、祖母は自分の管理できない状況をそのままにしてなくなっていった。
母も目を背けた。
結局、私がやることになるし、母がまだいるいないに関わらずいずれ私がやることは明らかだった。
だから捨てに捨てた。
ほんとうに今回の出来事は物に対しての価値観を考える良い機会だった。
必要な、大切なものって自分にとってはなんなのか、物が溢れていつか自分の管理できなくなるくらい増えたらそんなのただのゴミだ。
ゴミよりやっかいだ、捨てられなくなるから・・・。
もうほんとうにそのことを思い知った。
そして今回のリフォームをふくめて、掃除をふくめてほぼ全て私に任せきったというか、思考を停止してしまった母はそいういったことを考えずに死んでいくのだろうかと思った。
だから今回の私の苦労はわからないだろうし、おそらくまた物がたまっていくだろう。
スペースが空いてしまったところにまた埋まっていくのだろうか。
母にこのことについて話たら「どう考えていいかわからない、何を残していいかわからない」と言った。
しかたないかもしれない。
なんでも病気にするのもいやだし、むしろ私のこの考えの方が異常なのかもしれない。
でもいつでもさっぱりできるように暮らしていたい。
もっと身軽でいたいと今回のことで思い知った。
無駄に広い庭で雑草の根を2週間も朝起きて抜き続けたのは私だ。
1年に何回もそんなことをやる労力も時間も正直ない。
かといってそれを母に求めるのは無理だと知った。
母の特徴ってなにかな、考える。
料理はうまかったな、ほんとうに料理の感はすごいと思うし私はかなわない。
ただそれ以外の家事が致命的にだめだ。
母の適職ってどこかの料理人として生きていたらうまくいったのではないかと思う。
ただ、母が掃除機を持っているのをみた記憶がない・・・。
ずっと布団も敷いたままの万年床だ。
だから思い切って畳から床にした。
ベットの方がまだ衛生的なんじゃないかって、せめて床のほこりぐらいはとれるだろうと。
だから、やはり母と暮らすのはしんどいかなと思う。
私はここでやれることをやったら、やはり行きたいところに行って暮らしたい。
そんなことを考えていたが、今回の物を捨てることがつらいことばかりだったわけではない、光もみえた。
心が楽になったからなのか体調が良くなっていった。
今住んでいる場所の、そして体の重力が軽くなった感覚を知った。
→終活・物を捨てる小説・感想記事はこちら「あなたの人生、片づけます」を読んで感じたことになります。読むとスッキリする本です。※ネタバレありです。
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