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だいたいのメンタル的な病気というのは、本心に目を向けることができないので病む

 

こんばんは、郁です。

心の病気、たくさんあります。

ほんとうにたくさんあると思います。

最近になって思うのですが、そういう心の病の原因について考えた時に、

どれも、本心に目を向けていないから起こってしまう気がします。

私の場合で例えるとなんでしょうか、

人間関係、仕事が嫌だ、金銭、恋愛、ダイエット、いきるうえで発生する問題ばかりですか、

少し絞ります。

例えば、人間関係や仕事、これで病む人はいるのですが、では、なんで病むのか、

心の声、なんだ?それ、なんかありふれた言葉な気もしますが、

あえて、それでも、心の声に耳を傾けてほしいと思います。

人間関係、今、そのキーワードで改めて考えましたが、人間関係が原因で病むとき、それは、相手を支配したいのにできない時ではないだろうか、と思うのです。

人と人が例えば、仕事なりで学校なり、けっこう制約された環境で関係をつくる時に、相手を支配するか、支配されるか、やるかやられるかの構造というのは少なからずあると思います。

ほんとうに遊びたい、心から自由な友達つきあい、きょうだい、夫婦、恋人、なんでも言い合えるような関係は置いておきまして、

あくまで制約された場所での人間関係です。
人間関係という少し難しいシチュエーションで話はじめてしまいました。

書き始めて間違えたかなと、少し後悔しております。

例えば、会社、同じ部署の関係で、同僚であれば、どちらかが主導権を握り、どちらかが主導権を渡す、言葉でははっきり言わないですがそんな線引きはあります。

あってないような場合もあったり、時と場合によって、立場が入れ替わったり、主導権を握らされたりする巧妙な駆け引きもあり・・・

それで結局なにが言いたいかと言いますと、

だいたい病むパターンは、そういった事実の中で、どろどろした物があるという事実のなかで、

それでも過去に教えられた道徳的な部分でしょうか、

個人的な例え方ですと、綺麗な生き方ですね。

学校や親、あるいはマスコミなどから刷り込まれた「綺麗」ですね、

その思考にハマってしまった時に病んでしまう気がするのです。

先ほども言ったように、人間関係のなかには、主導権のやり取りのような、あまり綺麗でないドロドロした部分があります。

ですが、良い子ほど、そういったドロドロな人間関係には目を逸らして、教えられた綺麗な部分に忠実に従おうとする場合が多い気がします。

人間関係に駆け引きを行ってはいけない、人は生まれ持って良い人ばかり、誠実に接しなくてはならない、

そんな思考に陥る時に、いや、それが悪いと言っているのではなく、むしろ良いことなのですが、

そうばかりでは回せないところがあります。

ですが、どこか、その模範的な道徳心を外せない、いやむしろ、それを正しく信じて生きてきた場合、

現実では、がさつで、世渡りのうまい、要領が良いやつが最終的には生き抜くのですが、

その現実を直視できない、

病む。

そんな構造がある気がします。

ずいぶん長々と書きましたが、

今の世の中では、けっして綺麗な人間関係だけでは回せない、

そこに目を背けて、これはほんとうに不条理なのですが、教えられたこと、道徳心や親の綺麗な教えを守る人ほど、その現実との乖離に病んでしまうのです。

いまいち、言っていることがピンとこないでしょうか、

別の言い方としますと、動物的な生き方に目を逸らすとおかしくなる。

例えば、性、

恋愛といのは綺麗で、美しいものだと、これは例えば、純愛映画や、綺麗な小説、マスコミの影響もあるかもしれませんし、

なにかせ、男と女の関係に言葉ではっきりと言ってはいけないタブーのようなものが漠然とある気もします。

私だって、恋愛は美しいものの方が良いと思っておりましたし、思いたい時もありました、が、

男女の関係に性はつきものであり、それは人間である以前に動物として必然のものです。

あの人を好きなのは私の純愛だからという気持ちも理解できますが、その裏では、遺伝子を残すための生殖、生々しくて申し訳ないのですが、

そういった動物としての本能があるはずなのですが、そこに目を向けることができない。

結果、恋愛や失恋で病む。

決して二人の間は綺麗なものだけでなく、性という生々しいものがあるのに、綺麗な道徳心といえば良いでしょうか、

そこをスルーしてしまうので、病む。

ダイエットというか摂食障害というのも、食べることへの本能ですね、それを、否定してしまうから病む、

全てとは言いませんが、世間の道徳というか、教えでは、綺麗ではないと教えられた、動物的な本能に目を向けられず、否定すると、

心に問題が起こる気がすると、最近になって感じました。

うまく言えないのですが、自分の心に素直な人、あえて口に出さずとも、仕事の人間関係であれば、生きる上で仕方ないので人を踏み台にする、と、割り切ることができる人間、恋愛は人間も動物だから当然相手に対して性の事情も含む、動物だから美味しいものをいっぱいたくさん食べたい、などと素直に生きている人、

それが、がさつというのか、鈍感というのか、しぶといというのか、細かくないというのか、(良くない言い方をした場合ですが、)

動物的と感じる人ほど心を病むことが少ない気がします。

本能だけでなく、

本心としては嫌なのですが、世間一般の常識として考えると、それは非常識だ、という部分に囚われてしまうと病んでしまうと思います。

話を元に戻します。

人間関係、特に仕事、みんなと協力してやる、仲間を大切に、相手を思いやって、そういった綺麗なこと、
そうしたいのにできない現実、今の会社ではほとんど、そんなことできないのではないでしょうか、

働くのが社会貢献、

嘘だ、生きるためにお金が欲しいのに、

でも建前のなかでみんな生きている、

なんで誰もそれを言わないのだろうか、

不思議な世の中ですよね。

でも、真面目に、綺麗に生きようとする人ほど、現実の汚さを認めるとおかしくなって気が狂ってしまう。

いったいメンタルの病となんなのだろうか、と、そう考えるのです。

社会の仕組みがそうなら、当然、そうなる人はいるのが自然で、それを脳の物質の問題と考えることはどうなのだろうか、

それで社会も心の病として納得しているのが少し怖い。

いや、言い方は悪いのですが、もう少しがさつな人が、気を利かせてあげれば済む場合もある問題で、がさつで理解できないやつ(主に社会で上に立つ立場の人間)が、それは、脳の物質の問題であったり、「病」だよねと片付けてしまうから、病気という部分に追いやられてしまうのではないかと思うのです。

そして、病院も病気としてしまえば、薬で儲かるから、なおやっかいであり、それが普通となりつつある世の中はかなり怖いのかもしれない。

気持ちが薬で治るというのは、どういうことだろうか、

こんなことを言いつつも私は精神科の薬を飲んだ経験があるのですが、効いたと思ったことがない。

睡眠薬以外は、

それが助け舟になっている人、実際に効果があると感じている人もいるだろうし、すべてを私は否定しないのですが、

それでも、最近なんでも、なになに障害、例えば発達障害と、そんな名前がどんどん増えていることはかなりおかしなことだと皆思わないのだろかと感じるのです。

考え方なんて、血液型占いや、星座占いではないですが、マイナスに陥りやすい思考を細分化すれば、それはだいたい似たようなパターンは生まれる気がするのです。

それをいちいち障害としているのは、やはり少しおかしいのではないか、と、

個性と考えては、だめなのか・・・

そうして、カテゴライズした中でふるいにかけられて、ふるいにかからない、残った人間が健康となるのでしょうか、

選民思考みたいでやはり怖い・・・。

ふるいにかからず残った人間は完璧超人ばかり、どんどん「ノーマル」「健康」の基準が高くなり、ますます世の中、生きづらい場所に向かってたどり着くのではないでしょうか、

ひとつだけ言いますが、私は心の病である人を否定する気はありません。

心に病がないといえば、精神的な逃げ場もなくなり苦しむ人は沢山いると思いますし、病んでしまった心が、別の神経症的な病気につながる場合もあると思います。

私の場合もそんな体感に近く、心が落ちると体が不調になることがありますし、状況、現状の避難場所として、心の病は当然、あって良いと思います。

ただ、なにごとも加減といいますか、

短絡的に心の病を生み出して、結びつけるのは簡単ですが、それよりも、もっと、そういった状態になりやすい世の中の仕組みの方に目を向けるべきな気がするのです。

ですが、目も向けられない、変わらないだろうな、という絶望のなかで私は逃げた人間なので、何も言えないのですが、言ってしまいました・・・。

 

この記事のタイトルについて最後に締めます。

心の病気の部分の原因をたどると、現実では認めたくない心、それが、本能や道徳心に遮られて、心の奥底では本当は認めたいのに認めたくない気持ちがある時、二律背反になった場合になにか狂ってしまう気がします。

それを病気と一概に言えるのだろうか、と、考えると難しい問題だなと考える部分でした。

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

→そんなもやもやした問題の解決策については、こちらからどうぞ

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