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全てを話せて軽くなったある初夏の一日 離婚した父親と会ったこと

緊張しながらも父へ仕事をやめると話したときのこと

仕事を休んで(ほぼ辞めて)、しばらく経過した。

離れて暮らす、幼いときに離婚した父親には、会社を休んだことを話してなかった。

なんでも話ができた結婚している姉にも話してない。

休んでから1ヶ月ほどした5月の下旬、父に会う用事があった。

会う前は仕事の休みがいつなのか、父から聞かれ適当にごまかしていた。

少し心が苦しかった。

5月も終わりの頃、東京駅で待ち合わせる。

久しぶりに出る都心、人が多い、落ちついて話しながらご飯を食べれそうなお店を見つける。

席について話しはじめる。

最初は、現状のことをだまっていた。

もともと、年のはじめというか、一年ぐらい前から体調が悪いことは話しをしていた。

「仕事は忙しいか?」聞かれる。

ここ最近、私と話す父は、現状は派遣だが、それでも安定的に仕事をしている子供の話をきくのが少し嬉しそうなところも雰囲気で感じていた。

ここは、迷った、本当にどういっていいのか、嘘をついてでも心配させない方が良いのか、

ただ、瞬間的に判断できた。

嘘を言ったところで、うちの父には、ばれるだろう。

そもそも、今回、最初に会った時ですら父は、子供の変化になにか気づいた感じがした。

昔からずっと、東京の別の場所で離れて暮らす父親は、アルコールでだめになってしまった母親とは対照的にこれぞ模範的と言っていいくらい常識的な人間だった。

どこの会社で出くわす上司よりも、ほんとうにまともな人間だった。

人付き合いも無難にこなし、まめで丁寧な人だった。

いわゆる会社人間であり、都内のどこかの会社の役員をしている。

年齢が70を過ぎた今でも、週に何日が出勤しているそうだ。

勉強もできるし、本もたくさん読む、物静かで落ち着いている。

子供の頃にたまに会う父は、ふだん日常に目にする母のアルコールにおぼれた姿と比較すると、とてつもなくまともな人であり、会うと心の底から安心する人でもあった。

子供の少しの変化にも良く気が付く人だった。

ただ、仕事に関しては厳しいモノの見方の人だった。

私が大人になるにつれて、もともと体が弱く、ばりばりに働かない、いわゆる「社会人」としてはできのわるい子供に、大人になってから厳しい意見を言うときもあった。

会社の上層部、上司、管理者の意見だ。

だから、体調が原因で仕事をほぼ辞めるように休んだことはやはり言いづらかった。

思い切ってすべてを話したこと

それでも、ご飯を食べる為にお店に座って、

会ったはやい段階から会社を休んでいることを言ってしまった。

それで父の機嫌が悪くなっても仕方がない。

もうそこは腹をくくった。

仕事を休んだことを話さなくてはならないと思っていたし、もうもしからしたら会わなくなってしまうかも、と、どこか頭の隅では覚悟をしていた。

だから、ここしばらく仕事から離れて家の整理をしたときに出てきた、父と私をふくめ姉が子供の頃の、まだ一緒に住んでいたときのアルバムを持っておいていった。

せめて、もう会えなくなったとしても、父にもこんな昔があったことは伝えておいた方が良いと思っていた。

もう父も自分の人生を振り返る年齢だ。だから、母がアルコールでおかしくなり、なかば追い出されるような感じで結婚した時にきた母型の実家から出て行った(婿養子ではない)と思うが、それでも昔、家庭が崩壊する前の家族の姿があったことは伝えておきたかった。

もう、いきおいで話す。

「会社はもうずっと休職しているんだ。体調がついていかなくて・・・」

なんとなくそんな雰囲気を感じていたような父の表情はやはり曇る。

すこし沈黙があった気がする。

父は言った、

「おまえはむかしからどこか体調がわるいなぁ」と少し蔑むような言い方だった。

子供の心根の弱さを批判するような言い方。

でも、こっちも続けた、もうそれで見放されても良いと思った。

思っていることを言った。

ほんとうに体調が無理になってしまったこと、

ずっと派遣で頑張ってきた、

社員に仕事を教えるまで覚えた、

どれだけ頑張っても何も変わらなかった、

むしろ社外の人の方が良くしてくれた、

話はじめたらとまらなくなってしまった・・・。

 

ずっと、このままではだめだと思っていた。

いずれどうにかしないといけないと、と思っていた。

堰を切ったように話す。

 

会社の役員をしている父もどこか今の会社のゆがみのようなものをわかっていたのだろうか、

だんだんちゃんと耳を傾ける。

そして、1年前ぐらいから、お金になるかどうかは別としてひとから教えてもらってやっていることがある。

今はそれを家でしている。

具体的にブログを書いているなどは言わなかった。

「ただ、それが楽しいんだ」とほんとうに自然と笑みがこぼれて伝えることができた。

そんな私自身にわたしが正直驚いた。

客観的にみてもやわらかい表情だっただろう。

父はそこで全て察してくれた。

こちらの遮るように一方的に言い放った会話が終わってから父は短く話す。

「そうしたら、やりたいことがあったらやってみれば」

こういった理解のはやさはほんとうに昔から敵わない人だといつも思う。

続けて、「俺もさ、ずっとなんとなく会社に勤めてそうなってきたけど、大学なんていかないで高校卒業したらなんかの伝統工芸でもやっていれば、今頃人間国宝になってたかもしれないって思ったりする」などと話しはじめた。

何か、隠していたわけではないが、ずっとだまっていたことを話せて気持ちがすっと楽になった。

ご飯も済ましてお店をでる。

なんとなしに父とぶらぶら歩いた平日昼間の東京

そこから、まだ日中だったので、どっかに行くかとなった。

平日の昼間、なんとなく海に行きたい、そう、昔行ったことがある竹芝に行ってみようとなった。

ゆりかもめに乗る。

竹芝を通りこして、そうしたら、もっと先、電車内の案内板を眺めて「船の科学館」に行ってみようとなった。

平日、月曜の都内の電車は空いている。

父は、去年、前立腺のがんになっていた。

今命がどうのこうのというレベルではなかったが、進行をとめるのに肉体的につらい処置をしたらしい。

ゆりかもめから流れる車窓の景色を眺めながら父は病気のことを話す。

例えば、今は医学が進歩しているけど、100歳以上まで生きるのが当たり前の世の中になるのかな、それはいやだな、なんて話をする。

ふだん見慣れない、東京臨海の景色が非日常だ。

まだ梅雨の前で、空も晴れていて海とのコントラスト、タワーマンションが目に入ってくる。

「船の科学館」に着いて駅をおりる。

こんなに都心なのに人がいない。

まるでゴーストタウンだ。

船の科学館に行ってみたが月曜日だったので、休館日だった。

とりあえず近くまでいってみる。

南極観測船の「宗谷」があった。

 

 

 

 

人がいない海辺を父と二人で歩く。

潮風が気持ちよい。

マイナスインを肌で感じる。

とりあえず何枚か写真におさめ、また、ゆりかもめに戻る。

こんどは、最初に行こうとしていた竹芝で降りる。

ここも月曜日の桟橋は人がすくない。

暑くなく、からっとしている5月の終わりだった。

キラキラと海辺が眩しい、さきほどゆりかめで見えた、レインボーブリッジやらTV局やらが目に入る。

遠くをみると人が集まっていた。

 

 

 

 

「あれなんだろう」となり、とりあえず行ってみるかとなる。

行ってみたら、日の出桟橋からの観光汽船だった。

お台場方面や、さきほど訪れた船の科学館方面もあったが、いちばん近くに出発するのが浅草方面だった。

浅草行きの水上バスに乗り込む。

日の出桟橋付近、浜離宮あたりの都市的な風景から、墨田川をのぼると景色がだんだんと下町になってくる。

築地市場や両国あたりを通る。

水上バスは外国の観光客が多かった。

ふだん、東京の人なんてこんなとこ、こないのかなと思った。

浅草へ着く。

浅草寺は10年ぶりくらいに訪れた。

むかしきた時よりも人が多い、しかもあきらかに外国人だった。

むかしはもっと地味というか、ひっそりしていたというか、先ほど船の科学館でゴーストタウンのような感覚になったがそれとはいっぺん、月曜の平日なのに歩くのもやっとだ。

父に言わせると、昔と時代がかわった。

SNSなど発達して写真におさめたり、そういう目的なんだろうと、ほんとうに久しぶりに訪れた浅草寺は人込みでいっぱいだった。

おみくじは凶だった。

浅草寺のおみくじに凶がでるってほんとうのことなんだと、そんなことに驚く。

数年前に春日大社でひいて以来だった。

凶だけお寺にくくって良いということだったので、おみくじを残す。

ベンチで持ってきたアルバムを開く。

父は懐かしそうに、そして大事そうにアルバムの写真をスマホのカメラにおさめる。

昔の古い印画紙の写真はとても味がある。

デジタルの写真ではだせない色味と雰囲気だ。

これだけでひとつの作品のような写真ばかりで、幸せに溢れた光景だった。

だから昔でも、そういったことがあった事実を父に伝えられてよかったと思う。

参道をふらふらしながら、帰りに母と姉たちとずっと昔に訪れた、浅草の天丼屋に入る。

もうその頃は暗くなり、幻想的な下町の雰囲気だった。

 

 

 

 

父に全て話せて心が軽くなった。

なにより、父の方がよっぽどこの一日を楽しんでいるようだった。

切り替わりが早い。

仕事を休んだことなんてなんともないような、むしろ喜んでいた気持ちが伝わってきた。

ああ、これで良かったのかな。

なんか、色々とずっと無理していたのかな。

そう思って、最後は父と別れて家に帰った。

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