星降る吟遊詩人ライター、郁です。
いつもお越しいただきまして、ありがとうございます。
以前の記事で、体調が良くなったことを書きました。
では、逆に体調が良くなったことで陥ったことについて、今回、少し触れてみたいと思います。
体が良くなることで得てしまったもの
以前から体調不良に悩まされ、思い切って仕事を辞めて、家を整理し、雑草を抜きで体を動かしたことで体調が思った以上に良くなった。
良くなってしまったと言った方が正しい響きの気がする。
それで、じゃあ、結果、良かったかって…、
手放しで喜べたのだろうか、と、振り返った。
ここ数か月、いや、正確に言うと、良くなった夏以来、ずっと心の中に新たに発生してしまったことについて、
ようやく、自分自身の本音に少し近づいた気がした。
単純な話、体調が良くなれば嬉しい、夏はほんとうに体が軽かったし、体に綺麗な気が充満していた気がしていた。
もう完全に病から開放されたんじゃないかとすら思った。
しかし、年末に近づくになるにつれて、夏に体に集めた良い「気」の充電がなくなってきた感覚がしたのだろうか、
体感として感じていたし、どこか、見てみないフリをしていた気もする。
あんまり悪いことを考えすぎても、ほんとうに思っていればそうなってしまうのでは、と、いうことも感じていた。
私の考え方は、常々、不幸体質だと思う。
自分でも嫌になるくらい鬱陶しい。
良くなった、万歳と、ニコニコと楽しい毎日を過ごせることができたら、と、今、これを書いていてもまさに思ったりもするが、
そもそも、ニコニコな毎日があれば病気にすらなってなかった気もするし、会社を辞めてドロップアウトすることもなかっただろう。
目を逸らしていた心の真相
色々、鬱々と感じていた年末年始に、いや、正に今、気づいたことがある。
健康を手に入れたことで新たに発生した不安、
つまり、健康を失う不安が私の中に生まれてしまったのだ、と、
手術でなにか外科的な処置をして、骨がくっついたからOKなど、理屈でわかる健康でなく、どちらかと言えば、私の抱えているものは免疫の話だ。
良くなった原因もいまいち不明で、心の状態が影響していると考えると、まさにあやふやで極めてぼんやりとしている。
免疫は、バランスであって、強すぎてもダメだし、弱すぎてもダメだ。
健康が今の心とつながっていると考えると、じゃあ、心はどうやってコントロールすれば良いのだろうか、と、さらに悩んだ。
悩んだ末にその悩みの行く先はどこにつながっていたのだろうか、と、考えると、
「結局、手に入れた健康を手放す怖さである」と気づいた。
気づいていたが、知らぬフリをしていたという方が正しい。
健康が怖い感覚にここ数か月、小さな塊が心の中に生まれては消えて、少しずつ大きくなって、今年になってはっきりしてしまった。
気づいた時はショックだった。
だって、あんなに切望していた健康を手に入れて、味わったとしても、別の恐れを手に入れて生きるのだ、なんて・・・
苦しい時は、つらい体の症状が消えることをずっと切望し、苦しみの抜けた肉体を求めるだけのあまりに、良いことがつらく感じるなんて思いもしなかった。
考える余裕もなかった。
なにせ、ずっと対処療法で薬を使ってきたのに、対処療法の薬どころか、無害とされる予防薬すら使わなくなった。
まるで丸腰のままの、何かあっても素泊まりすらできる体を手に入れた。
良くなる前は、生活するためにずっと薬が手放せなかった。
正確に言えば、大学の頃に同じような経験した。
そして治ったと勘違いし、自由に生きようと、私の勝手に想像する「普通」の生活をして、そして、元の状態に戻ってしまった・・・。
あの時の感覚が強烈であって、上がりすぎた感情が一気に奈落の底に落とされ、火照るように免疫が暴走した記憶が体感として忘れることができない。
私はまたあの時のことを繰り返すのだろうか、と、夜寝れなくなると思いが頭をぐるぐるとめぐる。
健康ってなんだろうか、と、
病理学的というのか、症状としては良くなった。
代わりに不安を手に入れてしまった。
そのことに気づいたら、きっと私は一生、体も心も健康でいられないと思ったところで、絶望に突き落とされた。
「今が良ければいいじゃん」そう、言っていられるような性格になりたい。
でも、慣れない。
免疫について言えば、良くなったのは、バランスが良くなったということだろう。
なんとなくそう感じる。
目に見えないもの、自律神経のバランスも、ストレスを減らし、夏の中、雑草に触れて自然の免疫バランスに体が戻ったと思う。
ただ、その感覚をどう保てば良いのかわからずに、今、苦しむ。
目にみえた、「自律神経・免疫バロメーター」みたいなものがあり、バロメーターが心の状態とつながっていて、
どっちかに傾くとプラス、マイナス、と目に見えてわかって、いつも±ゼロを目指していられるようなものが欲しいと私は思った。
でもそれも不自然か、とも思う。
つまり自然というのは、心の状態も下るのが自然であって、その時に体調が落ちる、もしくはそう胸騒ぎするのもあたり前であって、
いや、やっぱりそう自然にコントロールできるようになりたいと、どこか欲があって、
まったくもって心は、やっぱり、やっかいであると思う。
つまりは、こう考えることも自然のひとつとして認識してしまえばことは足りる気もするし、そうでない気もする。
もう、いっそう、自然に捉える概念じたいが不自然なんだよ、と悟った方がはやいのかもしれない。
じゃあ自然に捉えるとはなんだろうか・・・、結局振り出しに戻る。
無限ループのはじまりである。
私は、かなりものぐさな人間なので、結局、ひとつの答えを見つけて安心したいのだろう。
わかれば楽だから。
その気持ちの裏には、人もしくは、生き物は、自然界も、やはり何かしらの変化を絶えずしていかなければいけないのかという、ある種の、ものぐさなりの絶望感がある。
変化って面倒くさいと思う。
体調の良さに到達するまで、何十年、
それでも、免疫のバランスを保つために、より良い「気」を注ぎ込むことを気にかけて、また変化しないといけない、
あらたな雑草抜きや断捨離のような快感を探さなくてはいけないと思うと気が遠くなる。
なんだか、快楽を求め続ける、欲望不制御な人間みたくも思える。
ただ、なんとなく、そういったことが人間の進化というものであるのかと思うと少し怖い。
最初の人類はものぐさなまま、自然にある野菜や、木の実や、果物だけを求めて生きていてくれればよかったと、勝手に思う。
火をおこすくらいは良い気がするが、貨幣経済などの、ややこしいものを生み出してくれなくても良くて、パソコンやスマートフォンまで作る文明にまで到達してくれなくて良かった。
こうしてパソコンで文字を打っていてなんだが。
結局のところ、私は、人間としての肉体よりは、自然の一部になってしまいたい。
風になりたい、そんな歌もあったが、
こういった考えだから、ただ、星を眺めるようなことが好きなのだろうか、
もう、いっそ星でも見に行こうか、と、そう思いたくなってしまった。
結局、衝動性が、今、停滞した「気」をぶち壊すことにつながる気がする。
雑草抜きと、家の整理、ゴミ捨てもそうだった。
ある意味での破壊で、快感でもあり、細胞に刺激を与えたのだろうかと感じる。
私は、今、何を破壊したいのだろう・・・。
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